僕、谷口総志は1974年に熊本で生まれました。
高校卒業後は20年近く関東で生活したのち、故郷にUターン。
現在は、熊本の球磨郡(くまぐん)という自然豊かな地で暮らしています。
休みの日には、飼っているニワトリの世話をしたり、夏はアユ漁、
冬はイノシシ猟に出かけるなど、筋金入りのアウトドア好きです。
川の幸・山の幸を自分自身で獲り、さばき、調理して子どもたちと一緒に食べる。
このひとときに、一番幸せに感じるんです。
僕がこういったアウトドアライフを求めるようになったのは、
キャンプ好きがこうじて30歳ころにオーストラリア一周の旅に出かけた際、
現地で自給自足に限りなく近い生活を送っている牧場主の人々に出会ったことがきっかけでした。
ライフラインが整っていない場所で、
・水たまりの水を飲みながら、
・自分たちで狩りをし、
・自分たちで食事をつくり、
・そして、食べる
という彼らのスタイル。
自らの周りに“ある”ものに目を向け、それを尊重し、
誇りにしながら生活している彼らと出会った時、心の底から、
「かっこいい・・・」
そう感じた自分がいたのです。
僕が自給自足の生活に憧れを抱き、夢見るようになったのは、
そのときの強烈な体験があったからですね。
ちなみに、もしも「最後の晩餐には何が食べたいか?」と聞かれたら、
間違いなく「にんにくたっぷりの餃子とエビスビール!」と答えるほどの
餃子好きです(笑)
熊本にUターンした現在では、自分で狩ったイノシシ肉をミンチにした肉と
庭で採れた野菜を、手作りの皮で包んで餃子を作っています。
そうやって自分で作った餃子を食べつつ、エビスビールを喉に流し込む・・・。
平日は一生懸命に仕事をこなし、そして週末は自給自足に近い生活をしながら、
このビールと餃子のコンビネーションを味わうひととき、
得も言われぬ幸福感に包まれるんですよ。
ただ、いまでこそこうして充実した日々を送ることができるようになった自分ですが、
臨床工学技士として駆け出しのころはずいぶんと辛い日々もありました。
熊本で生まれ育った僕ですが、高校卒業後は東京に出て、
臨床工学技士養成校に通いはじめました。
その際の3年時の実習で、心臓の手術(人工心肺)を見学したときに
“コレだ!”と直感が走ったんです。
技士になったあかつきには自分はこれに携わっていきたいと、
そのとき循環器業務に志すことを決意。
最初の職場には循環器業務が存在しなかったため、
すぐに夢を叶えることはできませんでしたが、
技士4年目に念願の循環器専門の医療機関に転職することができました。
しかし、経験者として、意気揚々と新たな職場に臨んだものの、
命にかかわるような心臓疾患の患者さんに相次いで対応しなければならない
緊張感あふれる現場では、それまで自分のたかだか数年の経験などなんの役にも立たず、
それどころか循環器の知識も浅いので周りの足を引っ張ってばかりでした。
そんななかで浴びせられた、
「心電図も読めないのか!お前なんて辞めてしまえ!」
という厳しい言葉・・・。
正直いって、すごく悔しく、恥ずかしく、あの頃は毎日が辛かった。
ずっと循環器の仕事に憧れ、そこで活躍する自分の姿をイメージしていただけに、
理想と現実のギャップのあまりの大きさに何度も挫けそうになりました。
それでも、これ以上みんなのお荷物になってはいけない、自分のせいで患者さんを
危険にさらすようなことがあってはならないと、
あの頃はそんな必死の思いで知識を吸収していたように思います。
業務は常に忙しいのが普通で、22時にやっと病院を出られるのが当たり前。
その後、疲れて眠い目をこすりながら、家に帰ってからも毎日、毎日、知識を詰め込む日々でした。
人生でも指折りの、“死ぬ気で勉強した”日々。
にもかかわらず、それだけ努力しても心電図だけはさっぱりわからず苦手なままでした。
いいと評判の参考書を聞けば必ず手にとって学んだし、
いろいろな勉強会にも参加してなんとか心電図をものにしてやろうと思っていたんですが、
まったく読めるようにならなかったんです。
「みんな、なんでこんな意味不明なものが読めるんだろう?」
そう自問自答するごとに、心電図を読めない自分に対して苛立ちが募っていきました。
ところがある日、お世辞にも優秀とはいえないある先輩が鼻歌まじりに
心電図を読んでいる姿を見て、ふとこんなことが頭をよぎったんです。
「この人にできて、自分にできないわけがない!」
そう考えると、一気に気持ちが楽になりました。
そして、同時にこうも思ったんです。
「心電図を読むって、実は意外と簡単なことなのかも・・・!?」
その気づきを得たうえで、新たな気持で心電図に向き合うようになると、
いままでの苦労がまるで嘘だったかのように、
すんなりと心電図が読めるようになったんです。
“心電図が読めない最大の原因は、その人が持つ苦手イメージに過ぎない。
それを払拭すれば、面白いほど心電図が読めるようになる”
そう確信した瞬間でした。
心電図が読めるようになってからというもの、
それまでのもがき続ける日々から一転、
一気に空が晴れ渡ったかのように楽しく充実した毎日を送れるようになっていきました。
日々の賢明な努力の甲斐あって、当初よりグンと循環器の知識も身につき、
職場でも徐々に信頼を置かれるようになっていた頃です。
以前の、全然役に立てず、まわりの足を引っ張ってばかりのころとは違い、
ようやく自分に対して自信を持てるようになりつつありました。
でも、ようやく芽生えてきた僕のそんな自信は、
当時の上司から投げかけられた次の言葉によって
いともかんたんに崩れ落ちたのです。
「自分ひとりでわかったような気になっていても、そんなのまがいもんだ。
人に説明できてはじめて、本当に理解できたことになるんだよ」
この言葉は、当時の僕にとって目が覚めるような衝撃的なものでした。
たしかに、以前に比べれば心電図は格段に読めるようになったし、
循環器をはじめ業務の知識も半端なく詰め込んだ自負もある。
でも、よくよく考えてみると、自分には何一つとして、
自信を持って人に説明できることがないことに気づかされたんです。
「ああ、ちょっとデキるようになっただけですっかりわかったつもりになってたけど、
自分はまだ何もわかってなかったんだな・・・」
それ以来、何かを学ぶ際には、単にその知識を吸収するだけでなく、
人に説明するとしたらどうするか?とイメージしながら学ぶことを
心がけるようになりました。
参考書を読むにしても、勉強会に参加するにしても、
ただ受け身で万全とインプットするのではなく、
「自分だったらこう説明する」
「ここではこんな例え話を交えてみる」
といった感じで、アウトプット視点を身につけるきっかけとなる出来事でした。
おかげで、それ以来、後輩など人に教えることが飛躍的に上達し、
なにより自分自身の理解がより一層深まるようになりました。
当時の上司に投げかけられた、
「人に説明できて、はじめて理解したことになる」
という言葉の他にもうひとつ、
僕のその後の人生の指針となる言葉がありました。
その言葉を授けてくれたのは、当時の職場でお世話になっていた医師でした。
その医師曰く、
「教えるっていうのはさ、他人の2倍の努力が必要だ。
君はもうそのレベルに達してると思う。
ただ、それで満足しちゃダメだ。
本を書くとなると、さらに他人の3倍の努力が必要になるんだよ。
お前ならやれる。総志、本を書け!」
衝撃でしたね。
自分が“本を書く”なんてこと、それまでにまったく想像したことすらなかったので。
でも不思議と、
「そんなこと自分には無理だ」
とは思いませんでした。
それどころか、「本を書く」という新たな目標ができて、
すごく嬉しく、そして燃えてきたのをおぼえています。
「いつか必ず出版しよう。死ぬ前に笑うためにも」
そう思ったんです。
“死ぬ前に笑うため”なんて、
ずいぶん大げさな物言いに思われるかもしれません。
でも、僕は小学5年生のときに叔父を亡くしたとき、
「いのち」というものについてすごく深く考えたことがあったんです。
そのときは、いくら考えても考えても答えは出せませんでしたが、
子どもながらに人の一生というものに思いをはせるなかで、
ひとつ、おぼろげながらたどりついた理想がありました。
それが、
「死ぬ前に笑えれば良い人生だったと言えるんじゃないか」
ということです。
それ以来、死ぬ前に笑うためには何をすべきかを真剣に考えるようになりました。
とにかく、人生が終わるときに後悔だけはしたくない、その思いが強くなり、
「今を楽しく、後悔しない人生」を心がけるようになったんです。
だからでしょうか。
医師から「本を書け」と言われ、
それが自分にとって目標として設定されたときも、
「実現のために徹底的に頑張ろう。
後悔を残さず、俺はやりきったぞと死ぬ前に笑うためにも」
自然とそう思ったんです。
当時の上司から受けた言葉と、そして先輩医師から授けられた言葉。
いまでこそ何冊も著書を出したり、各地でセミナーを開催している僕ですが、
あのときの2つの言葉がなければ、今の僕は存在しないともいえます。
だから、あの時の上司と医師には、とても感謝しています。
当初こそ職場のお荷物だった自分ですが、
必死で業務の知識と経験を身につけた甲斐あってなくてはならない戦力となり、
かつては苦手で仕方なかった心電図も、いまや誰よりも得意になっていました。
後輩をはじめ、まわりに頼られ、
信頼を得ているのが自分でもわかるくらい、
順風満帆で充実した日々だったと思います。
ただ、そうやって目の前のものごとが順調に進むようになって余裕ができたとたん、
それまでは心の奥底に追いやっていた夢が、
再びムクムクと大きくなってきていました。
その夢とは、海外で生活してみること。
昔からずっと、一度は海外で暮らしてみたいと思っていたんです。
これまでは、いつか叶えたいと思いつつも日々の仕事に追われ、
とてもじゃないですが、その夢を現実に移すことなど考えられませんでした。
そして、ようやく余裕が出てきたら、
今度は、せっかくの安定と充実を捨ててまでやるべきなのかという思いも・・・。
とはいえ、当時の僕はじきに30歳。
遅らせれば遅らせるほど、夢を形にするのが難しくなるかもしれない。
もし、けっきょく夢を叶えられずに一生を終わってしまったら
死ぬ前に笑うことなんかできない。
そう考え、自由が利くいまのうちに飛び出そうと決意し、
片道切符だけを握りしめてオーストラリアへ旅立ちました。
29歳の秋のことでした。
オーストラリアでの生活は、期待していた以上に刺激的で、
月並みな表現ですが、僕の人生観を変えるような出来事の連続でした。
オーストラリア大陸を一周すべく、現地で車や道具を購入して移動し、
テントで生活する毎日。
資金が途切れたら現地で働き、小銭を稼いだら、また次の土地に向かう。
そんな生活を10ヶ月ほど続けました。
ときには船で島に渡って働き、
ときには野生のカンガルーとに出会い、
ときには原住民族アボリジニと一緒に絵を描き、
ときには砂漠の真ん中で車が止まって絶望にさいなまれ、
ときには食事もノドを通らないほど不衛生な環境で生活したり、
でも、そんなことも、今にも降りかかってきそうな星空を眺めていると
ちっぽけなことに思えてきたり…。
決して楽しいことばかりではなく、大変な思いをしたこともたくさんあったけど、
そういうのも引っくるめて、あのときのすべてが最高の思い出です。
でも、なにより良かったのは、あの旅の最中に
ひとりの日本人女性と出会えたことかもしれません。
3ヶ月後、その人は僕の妻となりました。
旅先のオーストラリアで出会った女性と結婚し、
日本に帰ってきてからは、東京で妻と二人暮らしを始めました。
キャリアを中断して、長期間、海外を放浪していた30歳の人間を
雇ってくれるようなところが果たしてあるだろうかとやや心配していましたが、
すぐに都内の某大学病院で働けることになったのは幸運でした。
いちおう、新婚でしたしね(笑)
もちろん、今回選んだ職場も、
学生のころ、“これこそ自分が生きる道だ!”と感じた循環器です。
新たな職場では、
「まだまだ自分の知識や経験なんてちっぽけだな〜」
と痛感しつつも、一生懸命働きました。
でも、昔のようにダメダメでまわりの足手まといになってばかりというわけではなく、
前職の経験を活かせるし、職場環境も良いしで、毎日が楽しかったです。
かたや休日には、僕と同じく熊本出身ながら東京で暮らすのは始めてだった妻を
東京中に連れ回して(連れ回されて?笑)、
一緒に買い物に出かけたり、話題のスポットを観に行ったり、
ときにはウインドサーフィンをするために海に連れていったり・・・。
公私共に充実して、とりたてて不満のない日々でした。
あえて当時の不満を唯一挙げるとすれば、満員電車での通勤ですね。
東京という刺激的な街で働く以上、仕方ないことだと自分に言い聞かせていましたけど、
正直、「これさえなけりゃなあ・・・」といつも心のなかでつぶやいていました。
そうこうしているうちに、第1子を授かりました。
妻にとっては、夫である僕以外に頼れる親戚や友人もいない土地での
子育てですから、それなりの苦労はあったはずですが、
泣き言も言わず、僕が働きに出ている間とてもがんばってくれていたと思います。
じきにママ友ができたりして、妻もすっかり子育てを楽しんでいる様子でしたが、
このままこの東京という環境で暮らし、子どもを育てていく未来になんとなく
ピンとこない自分がいました。
そこで、夫婦で話し合った結果、
子どもが1歳の誕生日を迎えるころに関東での生活に終止符を打ち、
僕と妻の故郷である熊本にUターンすることにしたんです。
臨床工学技士としてのキャリアをスタートした東京を離れ
故郷熊本に戻ってきたわけですが、
東京時代の緊張感あふれる職場で何年も揉まれ、
それを乗り越えるため必死に努力してきたこともあり、
僕自身は技士としてかなり脂が乗ってきた時期でした。
かつて必死に身に着けた知識と経験のおかげで、
熊本に戻って就職した医療機関でもすぐにまわりから頼りにされるようになりました。
そんなおり、院内研修の一貫として引き受けたのが、心電図のセミナー講師依頼です。
心電図といえば、以前はダメダメだった自分がとりわけ苦手としていた分野。
新たな職場でも、昔の自分のように心電図に苦労し、苦手意識を持つ同僚がたくさんいました。
そこで僕は、自分自身が心電図でさんざん苦労した経験があったからこそ、
かつ、心電図が読めないのは“苦手イメージ”が原因であるということを知っているからこそ、
視点を変え、常識にとらわれずシンプルに、とにかくわかりやすくを心がけて
セミナー講師としての役割に挑んでみました。
心電図を読めなかったばかりに、悔しさや、恥ずかしさ、辛い経験を
嫌というほど味わった自分だからこそ伝えられることがある。
ひとりでも多くの方に、「心電図は読めるんだ」ということを実感してもらう。
そんな信念のようなものがありました。
その信念はいまなお、1ミリもぶれていません。
そうして務めた心電図セミナーは、受講者から大好評。
「今まで受けた心電図の解説で一番わかりやすかった」
という感想を多くの方からいただき、その評判が口コミとして広がっていったことで、
勤務先の病院とどまらずセミナー講師として
お声がかかるようになっていきました。
多方面から心電図のセミナー講師として
お声がけいただくようになり、
受講された方からは「苦手意識がなくなった!」と
ことごとく感謝されるようになりました。
そう言ってもらえるたびに、
かつて自分自身が心電図で苦労し、それをなんとかして克服した経験が、
報われるような思いがしてとても嬉しかったです。
ただ、その一方で実は、セミナーを重ねれば重ねるほど、
自分のなかで“焦り”のようなものが次第に大きくなっていたんです。
というのも、心電図セミナーを開催するたび、
みなさんが口々におっしゃるのが、
「いままで何回もいろんなセミナーに行ったけど、
けっきょく読めるようにならず、ずっと苦手意識を持っていました」
ということ。
この言葉からわかるように、とにかくみんな、
心電図に対して“苦手イメージ”を持ち、
それがこびりついてしまっている方が本当に多い。
なぜそうなるかといえば、これまで世間の心電図セミナーや研修では
知識を“詰めこむ”だけのものが蔓延し、
受講者が持つ“イメージ”に目を向け、それを理解し、
解消してあげる助けになるものが存在しなかったからです。
つまり、教える側の人間が、
心電図がわからない、読めないという人の気持ちをわかっていなかったんです。
それでは、わかるものもわかるようになりません。
残念ながら、各々が心電図に対して持つ“イメージ”に目をむけて教えられるのは、
かつて自身が心電図を読めないということを経験した
僕、谷口総志しかいないという事実がありました。
手前味噌ですが、僕は日本で唯一、心電図が読めないあなたの
気持ちがわかるセミナー講師であるという自負があります。
ただ、心電図に苦手イメージを持ち、読めなくて苦労している方が
たくさんいるにもかかわらず、
僕ひとりの存在だけではセミナーに来てもらい、苦手イメージ解消の
お手伝いをできる人数が限られてしまいます。
しかも、普段は臨床工学技士の業務があり、
心電図セミナーはあくまでその隙を縫って行っていたに過ぎません。
「いまのままのペースでは、いつまで経っても
心電図が読めなくて苦労しているが減ることはない・・・」
そんな焦りが、セミナーを重ねるほどに大きくなっていたわけです。
いったいどうしたら、ひとりでも多くの心電図が読めなくて苦しむ方が、
「心電図を読める!」を具現化できるようになるか?
そのために、
いまの自分がセミナーで直接教える以外にできることはないか?
その答えとして、かつて心に決めた目標がすんなり出てくるのに
時間はかかりませんでした。
「そうだ、本だ!多くの人に伝えるには本しかない。よし、出版しよう!」
心電図が苦手な人のための本を書く。
そう思い立つやいなや、
さっそく出版社数件に電話を入れ、「本を書きたい」とストレートに訴えかけました。
ひとりでも多くの人が“心電図が読める”ことを具現化したいという思い。
そして、子どものころ叔父の死をきっかけに心に決めた“死ぬ前に笑う”という決意。
いきなり出版社に電話するなんてずいぶん無謀な行動だと思われるでしょうが、
そんな2つの強い思いがつながり、紐付けされていたわけで、
そのときの僕にとってはいたって自然なことでした。
しかし、現実はそう甘くはなかったです・・・。
一番安い見積もりを出してくれた出版社でも250万円。
別のある出版社からは、700万円を提示されました。
まさかこんなに費用がかかるものだとは知らず、
さすがに一個人では手も足も出ません。
しかし、だからといって出版をあきらめる気にはなりませんでした。
それに、こちらから出版を頼むから高い費用がかかるわけであって、
逆に向こう(出版社)から「ぜひうちで出版を!」となれば、費用はかからないはず。
世間には、ブログが出版社の目に止まって本を出すことになった
ブロガーの例もいくつかありましたし、
「自分もブログを書いて出版社の目に止まれば、依頼が来るのではないか?」
そう思ったんです。
安易な考えに思われるかもしれませんが、でもそれくらい僕は、
本を書いて心電図で苦しむ人を救うということに真剣でした。
そうして、2016年2月にアメブロにて心電図ブログを開始。
これが開始当初から思いのほか好調で、
1日1万人が訪れる人気メディアになりました。
うまくいきっこなんてない、そんなまわりの声や自らの不安に惑わされず、
まずはやってみることが大切ですね。
思いのほか順調な滑り出しを見せたブログを開始してから2ヶ月。
2016年4月には、あの熊本地震が起きました。
市内は壊滅的被害で、もちろん医療機関も例外ではありませんでした。
とにかく情報が錯綜していたり、あるいは情報そのものを知りようがなかったりで、
身近な人の安否や、被害の状況、救援物資は手に入るのかなど、
みんなが知りたいと思ってもとにかく知る術がない。
そこで、2ヶ月前に心電図の情報発信のために始めたばかりのブログを、
熊本地震の被害状況の発信、情報収集のために解放することにしました。
当時は、誰が何を根拠に言ったのかわからないような
無責任な情報もたくさん流れていて、
被災者がいったい何を信じたらいいのかわからないような状況だったので、
僕の実名も明かし、電話番号も掲載したうえで、ブログに情報提供をお願いしました。
すると、生まれたばかりのブログながらアクセスが殺到し、
このときのブログ記事はなんと14万アクセスを記録。
とにかく電話が鳴り止まず、全国から次々と応援メッセージが寄せられました。
「こんなにもたくさんの人々が、僕のブログを訪れ、共感してくれている・・・」
この瞬間、インターネットの持つ可能性の大きさにハッキリと気づいたんです。
もともとブログを始めたのは、これが出版社の目に止まって
本を出せるようになったらいいな、という淡い期待があったからでした。
でも、熊本地震での多くの方のブログへの来訪をきっかけにして、
一人でも多くの心電図で苦しむ人を救うには、
インターネットでの発信を強化すれば良い、
2ヶ月前に始めたこの方向性で間違いないと確信することができました。
ネットの向こう、PCやスマホのスクリーンの向こうには、ちゃんと人がいる。
心電図が読めなくて、苦しんでいる人が、必ずいる。
その人たちに、もっと僕の思いを届けよう。
そう決意すると同時に、あらためて、必ず出版するという覚悟ができました。
人間、いつ死ぬかわからない。
でも、僕は今のままではまだ、死ぬ前に笑うことはできない。
熊本地震で多くの方が亡くなった事実に触れ、一層強くそう思うようになったんです。
「とにかく書こう!出版しよう!!」
そう決断し、
子供の運動会にもパソコンを持ち出し、応援以外は書く
家族キャンプでも、子供たちより先に起きて書く
花見でも、ちょっとの時間でも書く
「死ぬ前に笑いたい」
そして
「いつ死ぬかわからない」
だから必死に書きました。
まぁ、父親としては失格だったかもしれません。
そして、
熊本地震から4ヶ月後の2016年8月8日。
僕の初の著書、『心電図最後の教科書 12誘導編』が出版されました。
以前、出版社に突然電話をかけて見積もりを取った際はその額を見て尻込みしてしまい、
「当面はブログを書き続けることでいつか出版社から声がかかれば…」
と考えたものですが、地震を機に、
「お金が理由で目標の実現を遅らせたくない。
とにかく動かなければ始まらない!」
そう思い、自費出版に踏み切りました。
もちろん、知名度のない一個人の著書など、当初は見向きもされません。
ただ逆に、知ってもらえさえすればなんとかなる、
この本の良さが伝わるはずだという根拠のない自信があったんですよね。
だから、出版してあとは売れるのを待つだけ・・・という姿勢ではなく、
出版するやいなや、今度はその本の存在を知ってもらうための
導線をインターネット上に構築するために動き始めました。
つまり、出版社や書店任せにするのではなく、
集客→認知→販売の仕組み化を自分自身で試みたんです。
前述のブログに加えて、YouTube、LINE@、Facebook、
Twitter、メールマガジンなどなど、各媒体で情報発信を行い、
それらをいかに効率よく連携させるかを模索し続けました。
一人でも多くの、心電図に苦しむ方に僕の本を手にとってもらいたい。
そのためには、とにかく自分が率先して発信を続けるしかない。
そんな思いで、僕の発信が必要な方に届くよう導線を作り続けた結果、
出版から4ヶ月後の2016年12月には、
Amazonの循環器部門ベストセラーランキングでついに1位を獲得できました。
自費出版という性格上、世間の相場に比べてずっと高額であるにもかかわらず
多くの方がわざわざ購入し手にとってくださったことは、
心電図が読めなくて苦しみ、なんとかしたいと考えている人が
いかに多いかという事実を物語っていると思います。
しかも、現在では100件を超えるレビューが寄せられており、
「心電図への苦手意識がなくなった!」
「谷口さんの本のおかげで心電図を勉強するのが楽しくなりました」
「なぜこれまで心電図が読めなかったのか不思議なくらい、
今では心電図が好きになった」
このような声が続出しています。
かつて心電図が読めずまわりのお荷物でしかなかった男が、
いまではこうして、過去に自分と同じような悩みを抱えている人たちの
役に立ち、感謝されている──。
いまでもときおり、夢なんじゃないか!と思うことがあります。
1冊目の著書を知ってもらい、売るための仕組みづくりに励む一方で、
実は、続編となる2冊目の執筆も進めていました。
「1冊目が売れるかどうかまだわからないのに、もう2冊目を!?」
そう驚かれるかもしれませんが、前にも書いたように、
知ってもらえさえすれば売れるという確信が僕にはありました。
むしろ、
「自分が持っている心電図に関する知識と視点を
余すところなく伝えるためにも、早く続編を出さないと」
そう思っていたくらいなので、たとえ1冊目がまだ売れていなくても、
2冊目に着手することは自分にとってごく自然だったんです。
幸い、前述のように情報発信の仕組み化が功を奏し、
1冊目がAmazonランキング1位を獲得(循環器部門)。
その実績を引き下げて送り出した続編『心電図最後の教科書 不整脈編』は、
出版から2週間でAmazonランキング1位になることができました。
だんだん出版というもののコツがわかるようになってきて、
その後もコンセプトや価格帯、ターゲットを変えて
3冊目『固定観念を取り除けば、心電図は読める』、
4冊目『心臓の機能は2億円でも代行できない』を世に送りだしています。(2018年1月現在)
おかげさまで、いずれも心電図の教科書や参考書として
これまでにない視点を与えてくれると良い評判を得ていて、
僕自身も心電図の専門家としてずいぶんと知名度が上がりました。
さすがに、ラジオ番組にゲスト出演を求められるようにまで
なるとは思ってなかったですけどね(笑)
そして現在──
これまでに出版したすべての本がAmazonのベストセラーランキングで
該当ジャンルの1位を獲得しているという実績をもとに、
同じように出版したい方のお手伝いをするため
「出版戦略プロデュース」業を手がけるなど、活動の幅を広げるようになりました。
“谷口総志プロデュース”で出版し、著者となった方々も、
これまで僕が培った方法論に基いて出版を仕掛けることで
同様にAmazonランキングで1位を獲得することができ、
ともに喜びをわかちあうことができています。
もちろん、
“心電図で苦しむ人を救いたい”という信念は変わりませんから、
そのための活動は落ち着くどころか、いまではさらに発展しています。
セミナーや著書を通じて、
「心電図は苦しいものではなく、誰でも読めて学ぶのが楽しいもの」
だというイメージを持ってもらえた方に向けて、
次は心電図の楽しさを伝えながら一緒に成長していくための
エバンジェリスト育成プログラム“TAKAMI”を2018年1月より発足しました。
これは、その名の通り“高み”を目指す場です。
心電図を「読む」から「伝える」にステージを上げ、
それにとどまらずさらに幅広いスキルを学び、信頼され、
そして相手を「伸ばす」。
そんな自分自身になるべく、一緒に人生のステージを高めていこうというプログラムです。
これまでは、心電図が読めるようになってもらおうにも
苦手イメージの解消を
伝えられるのが僕ひとりしかいませんでした。
しかし、このプログラムを通じて
僕の理念を理解し、共有する仲間たちが、
さらにその周りの人々に“心電図は読める”を体現させていってくれる。
そう信じています。
かつては本当にダメダメだった僕でも、いまやこうして
多くの人に信頼され、感謝され、一緒に成長できる仲間に恵まれるようになりました。
ぜひ、あなたも一緒に人生のステージを高めていきませんか?
大丈夫。あなたも必ず変われます!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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